日本初の事業にこだわる基礎となる幼少期の足取り

昭和45年9月30日 東京都大田区西蒲田に父光雄、母恒子の長男として生まれる。
昭和46年4月 大田区立西蒲田保育園入園 幼少の頃より父から
①何でも良いので日本一になれ
②人が右と言ったら左と言え
③大人に好かれる子供になれ
と教育を受ける。この教育が今の生き方の原点となる。 ①の何でも良いので日本一になれからヒデミツは高校時代アルバイトを経験したが高校卒業と同時に18歳で事業を起こして以来、一度も人に使われたことは無く、且つ常に「日本初の事業」にこだわっている。日本初の事業であれば常に日本一である。 ②の「人が右と言ったら左と言え」は、これは大変難しく右を熟知しないと左が言えません。結果右の本質は左であると導かなければならないので常に物事を裏から見るくせができた。 ③大人に好かれる子供になれば、大人の顔色を見て行動することがあるが、これは常に相手の気持ちを考えて行動することになり、商売も常にお客様の気持ちを考えることで、人の顔色をみて生きることがビジネスの原点に繋がっている。
昭和52年4月 大田区立相生小学校入学 父の教えにてテレビのニュースをみてテレビに向かって文句を言えと教育され、常にアナウンサーの言っている事の裏を言わねばならず、この教育が今の逆転の発想に繋がっている。
昭和55年夏 異常なのどの渇きと頻尿の為、近所の病院へ行くと直ぐに大学病院を紹介される。検査の結果小児人口10万人に1.8人と言われる発症原因不明の小児性糖尿病(大人がなる糖尿病とは全く異なる)と診断され即日入院。一日何度も行う自己注射と指先に針を刺し血を出して測定する血糖値測定の日々に入り、幼心に「退院するまで我慢すれば良いだろう」と気安く思っていた所、一生その生活を辞められないと知り、絶望し、死にたいと思う日が続いた。
昭和55年秋 長期入院中は、週に2度小学校の担任の先生が、授業に遅れないようにと勉強を教えに来て下さいました。今でもその恩は決して忘れておりません。通常の小学校では、この病気になると体操着や水着の色を変えなければならないのを、この担任の先生は「そのような事をすると、差別を助長する」と考え、皆と同じ服で過ごさせてくれました。この小児性糖尿病は不治の病な上、患者は大抵の場合、他人に病気のことを隠す傾向があります。大会社に務める人などは、病気のことを会社に隠しつつも低血糖による意識障害を恐れ、わざと血糖値を高く保つため、血糖値のコントロールができずに失明や腎臓疾患を起こし、透析が必要になってしまう方が多いようです。ヒデミツは小学校の先生のおかげで自然にカミングアウトすることが出来、皆の前で自己注射も行っているので血糖値をこまめにコントロールすることで、今でも健康体そのものです。
昭和61年2月 中学時代学校以外での一日の勉強時間は最低でも7時間以上という生活を盆も正月も毎日欠かさず行い、優秀な成績で高校受験に望むも、願書出願の時点で健康診断書の提出が求められ、私学受験を諦めざるを得なかったが、理解のあった日大習志野高等学校へ入学。入学が決まると同時にまた入院しての検査が続く。両親はヒデミツが入院中に片道2時間以上の通学の便宜を考え、引越しをしてくれた。このとき初めて自分の部屋というものが持て、寝ている両親に気兼ねなく明かりを点けていられることに感激した。
昭和61年10月8日 16歳の誕生日から約一週間後、小学生の頃より待ちに待った運転免許(原付免許)を取得。中学2年の頃より本を買って勉強していたので簡単に合格した。ここから運転免許証12種目完全制覇の道が始まる。原付免許取得から一週間後に、通常普通免許や自動車二輪免許を取得すれば運転する事の出来る小型特殊免許を取得。小型特殊免許を取得している人は殆どいないのでは。小型取得免許は農耕機や小型のフォークリフトなどを運転する免許で、私が受験した際には受験会場が原付の会場と同じ部屋で、受験者も私一人でした。
昭和63年6月 高校受験での私学受験を諦めざるを得なかった反動から、ディスコやバイトに夢中になり勉強を全くしない為、高校での成績はビリに近い成績となり、これではせっかくの大学附属でありながら附属大学への推薦入学も出来ないと気付く。ようやく勉強を始めるが中々遊び癖が抜けずに自己の不甲斐なさに気付き、一念発起し頭を丸坊主にして勉学に励む。
昭和63年11月 丸坊主にして勉強した甲斐なく、附属高校にもかかわらず附属大学の推薦を受けられず一般受験に切り替える。
平成元年3月 一度は推薦入学できなかったものの、突然の学校からの連絡で補欠で推薦が決定し運よく日大経済学部へ入学することが出来る。
平成元年4月 入学と同時に様々な商売をはじめる中、自らの経験から日大の附属高校生が全員附属大学に推薦入学できないところに目を付け、日本で初めて日大の附属高校生専門の家庭教師センター「日統一ゼミナール」を設立。ここから日本初のビジネスへの挑戦が始まる。

幼稚園時代



今があるのは、この父の
「変わった」教育のおかげ



二宮金次郎を真似て
小学校へも登校



病気が発病したころ



小学校の卒業アルバム
このころから
政治家を目指していた



病気を感じさせない
活発だった中学時代



遊び呆けていた高校時代